「罪も憎まず、人も憎まず」のナイナイ状態にならないように
僕には嫌いな人がなかなかできません。
(苦手な人はいましたが。)
これは自分ながら、よいことだと思っています。
以前の記事にも、このことに少し関連したことを書きました。
という記事です。
仮に、気が合わない人、嫌いな人がいたとしても、
その人がランチを食べている姿を見ると、
その人に対する嫌悪感が不思議と、なくなっていく、
ということをそこでは書いています。
さて、
僕には嫌いな人がなかなかできません、
ということなのですが、
だからといって、
されたこと、
起こったこと、
経験したことなど、
全てにおいて気持ちよく済んできたかといえば、
決してそうではありません。
悔しいことも、
悲しいことも、
残念なことも
これまでにたくさん起こってきました。
もう二度と起こらないようにしよう、
そう思ったことがたくさんあります。
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉があります。
この言葉は、
なにか嫌なことが起こったときに、
その相手方である人ばかりを責めずに、
「今度からそのようなことが起こらないように注意しておこう」
ということだと、
とらえるようにしています。
(人を憎むという言葉が好きではないので、責めるとしておきますね。)
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を引用して、
そのとらえ方で正しいのかどうか??
というのもありますが、
僕はそのような解釈でも間違いではない、
と思うことにしています。
(ここではそうしているということです。)
そして、
他山の石というものも含め、
この、「今度からそのようなことが起こらないように自分でも注意しておこう」
の数が多ければ多いだけ、
同じような嫌なことにあう可能性を減らせることができる、
と思っています。
逆にその数が少なすぎると、
もしかしたら、
すでに嫌なことに慣れてしまったのかもしれませんし、
そもそも嫌なことに気が付いていないだけかもしれない、
とも思います。
そういう目で自分自身をかえりみたときに、
僕はもしかしたら、
「罪も憎まず、人も憎まず」で
人も罪も責めずの、
どちらもナイナイ状態になってしまっている可能性があるのかな、
と少し反省するときがあります。
僕の知る人のなかには、この罪の部分に着目するのが上手い人が複数います。
「今度からそのようなことが起こらないように」
ということを掲げている数が多い、という人です。
僕も罪なことにはもうちょっとは敏感になり、
「今度からそのようなことが起こらないように」
ということの数を増やすことによって、
自身の改善度合いを上げていくようにしたほうがいいんだろうな、
と思っています。
「罪を憎んで人を憎まず」
たいそうなとらえかたかも知れませんが、
人類の進歩、科学の進歩の歴史はここにあるのかもしれません。
ご覧いただきまして誠にありがとうございました。
「罪も憎まず、人も憎まず」の、どちらもナイナイ状態にならないように、
罪のほうについては責めたらよいだろう、というはなしでした。
仕事においては、間違った人を責めるのではなく、
間違いが起こる仕組みを責める、というものですね。
「罪を憎まず、人を憎む」ということは、
なかなか思いもよらないことですが、
言わずもがな(☓)ですね。
我流の解釈であるということをおことわりしておきます。