僕が信号を守ろうとしている理由

自宅と事務所のあいだを

車で行き来するときのとおり道で、

いつも、たくさんの人が横切るところがあります。

 

そこに信号はありません。

そのとおり道は、

車がビュンビュンと走っている車道です。

 

なぜいつもあの場所だけなのか。

 

ちらりと横に目をやると、

その車道に向かって、

住宅地方面からの道路がのびているのが分かります。

その道路は、

車がビュンビュンと走っている車道で途切れているのですが、

そのまま車道を横切ることによって、

電車の駅までの近道になってるんですよね。

 

近くの信号まで行って、

また戻ると、

遠回りになる。

 

だから、その周辺をよく知っている住宅地に住んでいる”であろう”人たちは、

時間短縮のために、

信号のない車道を横切ることが多いのでしょう。

たぶん、そういうことだろうと思います。(一部は想像です。)

 

車道を横切らずに歩くと、

どのくらい時間がかかるのか?

僕の見積もりですが、

車道まで出てきた地点から、

車道を横切らずに、信号のあるところまで30メートルくらい歩く。

そこで信号待ちをする。

青信号を渡る。

そしてまた、30メートルくらい戻る。

そのくらいだと、

信号での待ち時間にもよりますが、

長くても、5分もかからないでしょう。

 

信号のない、車がビュンビュン走っている車道を横切って、

5分を得したことになるのかどうか?

 

5分得したことになっているのでしょう。

おそらく。

たしかに数字のカウントのうえでは、

時間は得しているのかもしれません。

 

 

ちなみに、

僕は、信号無視をしません。

自分自身が信号無視をすることが好きじゃありません。

ほんの数メートルで、交通量がガラガラであってもです。

 

信号無視することが、交通ルールを守っていないことだからか。

もちろん、ルールを守っていないからだと思います。

それは、あるでしょう。

 

でも、それよりも、

車の運転手がびっくりするだろうから。

車の運転手に迷惑がかかるだろうから。

危険だから。

こっちの理由のほうが、

ルールを守っていないから、という理由よりも、大きいと思います。

僕は、普段から、車の運転をしているから、

そう思うのだと思います。

 

でもさらに、それよりも、

もっと大きな理由があります。

それは、

”自分は信号無視をするような人間なのだ”

ということが染みついてしまうのを避けたいということです。

 

信号無視をすること自体は、

すぐに終わります。

ちゃっちゃと横切れば、

一瞬です。

でも、信号無視をしたということは

自分の無意識レベルでは、

きっと覚えているはずです。

ほんの一瞬のことを

無意識レベルではずっと覚えている。

 

自分は信号無視するていどの人間なのだ、と。

 

そういったことが無意識に染みついてしまうのが

僕はイヤなので、

信号無視をしないようにしています。

 

とまあ、

えらそうなこと言っていますが、

昔からそうだったわけではありません。

 

「赤信号みんなで渡ればコワくない。」

 

そんな言葉がありました。

たぶん、何十年か前くらいに

よく?口ずさんでいたと思います。

(この言葉、流行っていましたっけ?)

 

でも僕は、その言葉をオーバー達成するかのように、

たとえ”一人であっても”、

赤信号を渡っていときがあったと思います。

みんなで渡れば・・・どころか、

単独行動すらしていました。

 

そんな恥ずかしい歴史の一コマがあります。

 

そのときは、

その都度、その都度、

僕は5分間の得をしたつもりになっていたのかもしれません。

 

でも実際はどうでしょう?

 

あれからもう何十年も経っていますが、

その当時の5分間の短縮の積み重ねでなんて、

何一つ得をしたものは残っていません。

 

そんなことをしていた、

という記憶だけが残ってしまっています。

 

いまではもう、

僕の潜在意識は上塗りされている、

と思いたいところです。

 

 

 

 

 

ご覧いただきまして誠にありがとうございました。

 

僕は、潜在意識のような階層は、広く多方面に影響力がある、と思っています。

信号無視とか、道路横切りくらいで、

そんなたいそうな、

と言われるかもしれません。

 

でも僕は、日常生活においては、

影響力が及ぶところとして、

挨拶とか、礼儀とか、マナーとか、作法とか、人間関係とか。

そういったところに顕在化しやすいんじゃないかな、

なんて感じています。

自分がそうだったような気がしています。